神田 武夫(かんだ たけお) 投手 右投右打
1922年生まれ*1(~1943年) 京都府出身
【アマ】 京都商業学校(京都府)
【プロ】 南海軍(41~43)
沢村二世
「悲運のエース」として知る人ぞ知る名投手。快速球とドロップを武器に京都商業時代は甲子園2回・選抜1回に出場し、全国に名が知られる投手となった。
卒業後の1941年、戦争で大半の選手が応召された南海軍に入団。初年度から先発として起用され25勝、再現年度の翌42年も24勝を挙げ、若くしてチームの大黒柱ともいえる活躍を見せた。しかし神田は肺に持病を患っており、活躍のさなか時にはマウンドで血を見せることもあったという。42年シーズンの終了をもって病床に伏し、その後二度とマウンドに戻ることはなく翌43年7月に短い生涯を終えた。戦争に伴う神田の状態を顧みない酷使とその結果が、悲運のエースと呼ばれる所以である。
神田の背番号は19で、ホークス球団では野村克也が着用していたことで有名な番号だがそれ以前に神田を含む6名もの選手が着けていたこともあまり知られてはいない。しかし実働2年の極大の輝きがホークス史に確かに刻まれていることだけは間違いない。
1942年(昭和17年)度成績
61登板(32先発) 防御率1.14 24勝20敗 122奪三振(372回) WHIP0.96
能力
球速
「快速球」。別所毅彦(自称160km/h)より速いとの説も
ノビB フライボールピッチャー
京都商時代からそのストレートで全国に名が知られた。
ストレートの質の裏返しか再現年度の前年・1941年にはアウトのおよそ2/3をフライアウトで終えた試合があったという*2。同年の被本塁打の多さも考慮した。
回復B ケガしにくさF
登板数だけ見ればシーズンの3/5は先発を含めて登板しているのでA相当と思われるが、後半は持病のため調子を崩し早期降板も増えた。
4~7月を前半、8~11月を後半とするのであれば後半は5勝に終わっている*3。シーズン終了直後の査定ということで回復は一段階下げた。
野手能力
野手でのプロ入りの誘いがあったというほど打撃に優れていたということで成績よりは高めに。
パワナンバー 12400 21367 28327