真田 重男(重蔵)(さなだ しげお(じゅうぞう)) 投手 右投右打
1923年5月27日生まれ(~1994年) 和歌山県出身
【アマ】 海草中学校(和歌山県)
【プロ】 朝日軍
パシフィック
太陽ロビンス
大陽ロビンス
松竹ロビンス (43、46~51)
大阪タイガース (52~56)
ドロップの真田
戦前・戦後において活躍した「ロビンス」のエース。プロ入り前は海草中学で嶋清一の後を継ぎ、主戦投手して1940年夏の大会でチームを2連覇に導く活躍を見せ1943年にプロ入り。途中戦争を挟んだが復帰後は46~48年の3年連続で20勝を達成。1年空けて50年はチームが「松竹ロビンス」となった年、超強力な「水爆打線」をバックにひたすら投げ続けセリーグ記録の39勝をマーク。沢村賞・最多勝利のタイトルを獲得した。
なおこの間にシーズン最多失点・最多自責点・最多被安打*1のホルダーとなったが、これは464回と2/3という途方もないイニングを投げたことによるものであり、これらに筆頭される酷使が50年以降の故障の連続・引退を早めた要因になったとされている。
引退後は評論家・解説者として活動。58年からは明星高校野球部の指揮を執り63年夏の甲子園でチームを優勝に導いた。甲子園優勝投手が優勝監督となるのは真田が第一号であった。90年、野球殿堂入りを果たす。94年死去(71歳没)。
1950年(昭和25年)度成績
【投球】61登板(36先発) 防御率3.05 39勝12敗 191奪三振(395回2/3) WHIP1.06
【打撃】.314(172-54) 2本 36点 OPS.839 2盗塁
獲得タイトル
最多勝利・沢村賞
能力
球速
「豪速球」の持ち主だったとされているが前年の故障・慢性的な酷使により球速が落ちたものと推測。個人的には速球派と技巧派の過渡期なのかなと
キレ○
所謂「懸河のドロップ」より
投打躍動
勝ち星を挙げた試合での大差での勝利が目立つので、真田投手が勝利投手になった全39試合の打撃成績を抜き出してみた。
⇒ .379(124-47)2本 32点
…とシーズン成績のさらに上を行く、投手のレベルを遥かに超えた好成績。シーズン2本の本塁打はいずれも勝ち試合、打点に至ってはほとんどをこの39試合で稼いだ。「水爆打線」のワンピースとしてまさに投打に躍動したシーズンだったのではないだろうか。
守備力
デビュー以降刺殺・補殺が非常に多い。後年三塁に転向したことからもフィールディングに優れていたと思われる。
パワナンバー 12800 01302 88568
*1:いずれも1946年